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【雑学コラム経済】バブル景気の真実★何が起こってどんな時代だったのかを解説

ひと昔前の日本に起こった
【バブル景気】
日本中の景気が良く、様々な人が荒稼ぎできた時代とイメージしていて、【古き良き時代】のイメージを持つ方も多いと思います。

実際に当時稼いだ人達に話を聞いても、『あの頃は良かった』と懐かしむ人がほとんどです。

  • 何が良かったのか?
  • 何が起こっていたのか?
  • どんな影響が出たのか?
  • 何故終わってしまったのか?

詳しい内容を深堀してバブル景気の実態を暴きましょう。

その時代に大きな利益を産んで最高の思い出の方々も多くいますが、偏った穿った意見ではなくあくまで客観的に総合的な判断でお話をします。

バブル景気って?

1980年代に訪れた好景気の通称
景気動向指数(CI)上では、1986年12月~1991年2月までの51ヶ月にも及ぶ、日本に起こった資産価値の上昇と好景気とその影響を受けた社会現象の事を指します。

ですが、突然パッと景気が良くなった訳ではありません。

多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのは1987年10月19日のブラックマンデーを過ぎた頃の1988年頃からであり、バブル景気が終わり1992年2月まで好景気の雰囲気は維持されていました。

多くの人は好景気を察知するタイミング終わった事に気がつくタイミングも1年くらい遅かったんですね…

好景気が終わった事に気がつかず、多くの人が投資を続けて株価や地価の暴落により大きな損失を出したり大量の破産者を出した事は有名な話です。
その後、失われた10年と呼ばれる不景気時代の引き金ともなった最悪の暴落も、この終わった事をすぐに察知できなかった事が原因と考えられています…

なぜ【バブル景気】って呼ぶの?

バブルとはつまり、Bubble(泡)が語源となっています。
1700年代のSouth Sea Bubble(南海泡沫事件)を語源として1990年に『バブル経済』が流行語大賞の流行語部門銀賞を受賞している。

実体経済から乖離(かいり)して資産価値が高騰し、その後急速に資産価値が下落する様子から中身がない『泡』が膨れて弾ける様子からそう呼ばれる。

その様子から、『泡沫(ほうまつ)景気』とも呼ばれる事がある。

同様の景気減少をバブルと呼ぶようになり、21世紀に入ってアメリカ・中国で起きた住宅と金融を中心とした資産価値の高騰、景気拡大期を米国バブル、中国バブルと呼称する。

バブル景気時の流行

バブル景気時の流行を振り返り、時代を感じたいと思います。
当時はどんな事に熱狂していたのでしょうか?

ディスコ

現在でもテレビなどでバブル期の事が放送される時に、真っ先に出てくる映像が「ディスコ」

ボディコンファッションで羽付扇子を振り回し、派手な音楽で踊る女性の姿が印象的ですね。

有名なディスコで言うと
「ジュリアナ東京」や「マハラジャ」などがバブル期を代表する店舗で有名です。

高級ブランド

バブル期といえば「高級ブランド」
エルメス・ヴィトン・シャネルなどの数十万円もの高価なプレゼントが男性から女性へ次々に贈られていました。

セレブ女性だけでなく、OLや大学生までもが高級ブランドで全身を飾り街へ繰り出します。

食文化も大きく変化

今となっては気軽にどこでも食べられる「イタリア料理」

当時は食べられるお店も少なく高級食でした。
バブル期に入り、お金が世の中を周りだすとそんなイタリア料理を食べたい若者が急増

「イタ飯」と呼ばれ大ブームを巻き起こす。
また、そんなイタ飯ブームに後押しされ、「ティラミス」も大流行

デートの定番といえば

  • 高級車でお出迎え
  • 高級ブランドのショッピング
  • イタ飯でディナーを楽しみ
  • ティラミスで至福のデザート
  • ティファニーの指輪をプレゼント

こんな感じでしょうか。

とにかくお金を湯水の如く使っていた時代でした。

なぜバブル景気が起こったの?

政府・日本銀行の金融・財政政策による景気刺激策がバブル景気の要因とされています。

1980年代前半にアメリカ合衆国でレーガン大統領が、前政権から引き継いだ高インフレの抑止政策として厳しい金融引き締めを実施していました。
インフレーションが沈静した後は金融緩和が進み、アメリカは復活したかと言われるほどの景気回復に成功するが、金利低下による貿易赤字で米ドルの魅力が薄れてしまいドル相場が不安定になる。

ドル危機の再発を恐れた先進国(G5)は自由貿易を守るために、協調的なドル安路線を図ることで合意。
その時の会議へ参加した日本の路線は円高ドル安に誘導する政策をとる事になる。

1985年9月に行われたこの会議の事を

プラザ合意と言う。
※ニューヨークのプラザホテルで行われた会議

以後、1987年2月にパリのルーブル宮殿で開催された先進7ヵ国(G7)による会議

ルーブル合意
※ドル安に歯止めをかけるための合意

が行われるまでに100円以上の急速な円高が進行する。

日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的とされてしまい、1ドル240円前後だった為替相場が1ドル150円台まで急伸。

このショックを和らげるために日本政府は内需主導型の経済成長を促すために公共投資拡大などの積極財政をとり、日銀は公定歩合を引き下げ長期的な金融緩和を実施。

結果、株式や土地などへの投機を許しバブル発生を引き起こしたとされています。

バブル景気による経済への影響

日経平均株価は急上昇。
1989年のザラ場では38957円の最高値を記録。
1985年9月の12598円のおよそ3倍にもなります。

株価に遅れて地価も1985年と比較して1990年には約400%の上昇となった。
1986年〜1989年に資産価値の上昇により1452兆円のキャピタルゲイン(含み益)が発生。

事業のために土地や株を買う企業が減り、このキャピタルゲインを目的に土地や株を買い求める企業が多くなった。
土地が多く買い求められる事が原因で地価の高騰が煽られ、さらに地価の上昇を招く結果ともなる。

この地価の異常な上昇のせいで、資金融資にも狂いが出てくる事となる。
通常は、土地を担保として融資を行う場合は評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付ける事も珍しく無くなってしまい、この過大融資の一部は後の地価下落によって多くの不良債権となり、銀行の破綻などにも繋がった。

バブル景気時には日本の地価は上昇を続け、バブルピーク時には日本全体の地価の合計はアメリが全土の地価の合計の4倍となった。

株価や地価が異常な上昇を見せたおかげで、多くの企業が業務とは関係なく株式投資や土地を買い漁る事となり、その多くのキャピタルゲインが保険となるので無理な経営をする事が可能となり、事業で失敗を繰り返す事が容易となる。

多くの時間と資金、労力を費やして実態のない経済が繰り返し行われていた状況となり、バブル崩壊に伴う株価や地価の下落に耐えられない企業た後を立たず倒産企業件数は4倍近くに及んだ。

株価や地価の上昇が止まり、キャピタルゲインを当てにしていた企業や投機家が多大な損失を抱え倒産していく事となりその企業や投機家たちが取引している事によって多くの利益を得ていた中小企業などが次々と連鎖倒産を起こしバブル崩壊は最悪なシナリオとなる。

なお、1973年12月より17年以上続いてきた日本の経済の安定成長期はこのバブル崩壊で終焉を迎える事となった。

バブル景気の後は

多くの不良債権を残したバブル景気。
経済大国と言われていた日本が今は借金大国。

80年代のバブル期には一般就業者の年収も膨れ上がり、バブル崩壊と共に収入が激減した人たちも生活レベルを元に戻せずにお金の使い方がよくわからなくなり、破産者を大量に生むことになる。

90年代の『失われた20年』と呼ばれる不景気
企業にお金がない事から人を雇う余裕がなく、人を雇えない事で事業展開に大きな遅れを伴い収益を上げるのに苦労する。
企業が人を雇えない事により就職氷河期と呼ばれる就職難。
就職できない事により犯罪の凶悪化や多発化。

全てが悪循環で苦しい時代が続きました。

多くの企業が倒産したり、従業員の解雇(リストラ)なども社会現象となりました。
金融機関を筆頭に企業の統廃合なども相次ぎ、経済の成長が大きく停滞しました。

この20年の経済が本来通り成長していれば日本は約100兆円得られたという試算もある程です。

1991年3月から始まった『失われた20年』
日本は世界各国から経済の成長という面で大きくつまづき、置いていかれてしまう事となった。

まとめ

「あの頃は良かった」と称されるバブル景気
その真実は、アメリカのインフレ沈静後にドル危機の再発を恐れた先進国(G5)が自由貿易を守るために、協調的なドル安路線を図ることで合意した結果が招いた円高ドル安政策の失敗による株価や地価の高騰。

多くのキャピタルゲインを得た企業が無理な経営をしたり実態のない経済が繰り返し行われていた状況に株価や地価の下落に耐えられなくなり、非常に多くの企業や銀行が破綻した最悪の歴史であった。

その後の反動の20年
「失われた20年」
得られていたであろう経済を先食いしていたような時代の事であり、向こう20年の収益を先食いしているので当然お金があり余った世の中だった事は想像できるだろう。

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